実家の裏に川があり、その先遠くに山が見える、何となく霧がかかってその輪郭しかわからない、みたいな景色は記憶にあるように思いますが、「1m先が全く見えない」という体験をしたのはつい今年に入ってからです。
この界隈に住む理由になりうる特別なスポット
家ではごく擦り切れたり穴の空いたりした適当な布などをまとい、自宅にWifiを繋がないことを貫いて数年。多少の不便は人生の味わいとして、甘んじて受け入れる生活にシフトしようと一進一退している具合です。
芸術なんてそんなそんな〜って感じで生活感にまみれた様子で生きているのですが、ある週末に近場で子供と過ごせそうなところはないかと考え、暑いので嫌です、だから室内でなんか面白いことないかな〜って探すでもなく知った場所が、東京都現代美術館です。
昨年の秋だったと思いますが、精神科医が集めたアートの企画展に行ったのが最初で、自転車で行けるというところと、常設展も飽きずに見られて、図書館やショップも楽しい。
美術館の建物それ自体も良いな、デカい公園もすぐ近くでのびのびと気持ちいという感じで展示含め全体をとおしてとても満足感があったので定期的に企画展をチェックしている次第です。気分が向いたら行ける距離というところが本当に良い。この界隈に住んでいる理由をなんとか探しながら生活しているものですから、近くにこういう施設があることは確かにその理由の1つに確実になりえる。圧倒的には図書館が超近所というところですが、次点で東京現代美術館が近いこと、これは言えてると思います。
さて先日その東京現代美術館の「坂本龍一 | 音を視る 時を聴く」という企画を見に相変わらずチャリ漕いで行ったのですが、そこにあった「霧の彫刻」という展示についてです(坂本龍一どこいった)。
中谷芙二子さんの「霧の彫刻」
早速ですが引用です。
霧の彫刻(きりのちょうこく, 英: Fog Sculptures)は、芸術家の中谷芙二子による一連の作品。人工の霧を発生させる装置を使い、1970年から約50年にわたり世界各地で展示されている。中谷は「霧の彫刻家」や「霧のアーティスト」とも呼ばれており、本作品は中谷の代表的なシリーズとなった。
引用元:霧の彫刻https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%A7%E3%81%AE%E5%BD%AB%E5%88%BB
もう本当に最低ですが風情皆無にいうと、だだっ広い広場に人口の霧を出現させる空間作品みたいな感じというかそれそのものでした。多分山に住んでいたら日常的な光景なのかもしれないですが、あまりにも自然から切り離されたところに生息してますもんね私たち家族は。自然を疑似体験するしか感じる方法がないわけです。
これが実際の山なら確実に遭難していただろうという、想像以上の濃霧の中でまず感じたのは恐怖です。物理的に前も後ろも何も見えないといっても大袈裟ではありません。かろうじて足元と、自分の手の届く範囲が見えるだけで、2メートル程離れた息子すら、ぼんやりした影としか捉えようがありません。
暗中模索が認められない不自由さ
どちらの方向が出入り口か、仮に進んだ先が壁なのかすらわからないそういう状況って物理的にはもちろん、気持ち的にもストレスなんだなあと、体験して改めて感じるまでもないことを改めて思ったりしました。そういえば大雪で前が見えないとか過去に仮に経験しうるとしても、別に外に出歩く必要もなければこんな気持ちの悪いこともないわけですし。
同時に、この不安や気持ち悪さは、見通しの良さだったり、手が届かないところも安全であることを確認して確信しながら進むことだったり、そういう感覚に慣れすぎているせいだとも考えたりし。
そしてそういう感覚が正常だと思いすぎると、延々と遠い遠い先にある不安をむしろ求めて生きていくことになるんだよな、少なくとも私はそうだったなと思い出したりもしました。どんだけ真面目なんだ。見通しを立てて、目的地を見据えて逆算的に、歩む方向・歩幅を決めていく、それが大人だと信じていましたよね。多くの人にとって普通の感覚とも今でも思いますが。
受け取る力がないことを悔やむ
さて霧の彫刻の作品自体のメッセージとか、作者の意図とは遠からず近からずな感想を持ったと思っていますが、まあ思っているという範囲です。かといって正解はー?みたいな調べ物も特にしないという体たらくな芸術鑑賞であります。1月に訪れましたが、霧って結局水ですからしっとりしてしまい、寒い寒いと息子と言いながら、確かこの後風邪もひきました。息子にとって単純にアトラクションとしての楽しさ以外は、随分意味不明な経験だったと思います。毎度母に付き合ってくれてありがとう。
メインの坂本龍一については息子興味示さず、次へ次へと会場内を進むので、特に何か考える暇もなかったです。ただただ見えていた世界が違いすぎるし、抽象を極めるには相当な具体的経験があるよね、そこを共有せずにこの抽象的なアートは捉えようがないという結論になりました。受け取る力が無さすぎますよ。
かろうじてその表現の一端を、比較的私でも消化しやすい音楽として、また聴いてみるかという感じで本当誰ねんてこれ書いてる奴。毎度のことであります。とはいえ、また自分に変化がある折に触れ、「まだ早い」とか「なんかこういうことかも」みたいな感覚に出会えたら素敵です。